人生、東奔西走

自分の人生の備忘録のつもりで作りました。

『降りてゆく生き方』の相容れないシーン

9月の到来を迎え、暦の上でもいよいよ「今年の俺の夏山シーズンは終わりだな…」と感じていました。

しかし今年は白山、立山に立て続けに登り充実の夏でした。振り返ると5月には奈良釈迦ヶ岳大峰山、4月には武甲山と1000m級〜3000m級までバリエーションも豊かに充実の山登りでした。

 

2022年山登りを振り返ると今年は諸々のギアの更新イヤーだったなと。登山靴、トレッキングパンツ、ヘッドライトなどを新しくしたのに加え、去年買ったレインウェアの初陣も飾り…2014年にひとまず揃えた諸々の山用具が新しくなりました。

更新の年ということで新しく買ったものはほとんどないんですが、ひとつだけ目新しいものを買ったんですね。それが熊鈴です。

 

熊鈴とはなんぞや。要はただの音のデカい鈴なんですが、何が楽しくてチリンチリン鳴らしてるかというと野生動物、とりわけ熊とのエンカウントを防ぐためですね。

熊ってなにも登山道の脇に潜んで間抜けな人類を獲っては食い、獲っては食いしたい生き物ではなくて。警戒心の強い動物でこちらから音を出し人の存在を知らしめるとあちらから近づいてくることは基本的にはない、と言われています。

 

これまで登ってた石鎚山あたりは熊の生息域ではないので熊鈴をわざわざ買うことはなかったのですが、熊の生息域である奈良の釈迦ヶ岳遠征時には流石に必要だろう…と思い買ったわけです。

登山靴やザック、ストックやウェアなどの山行を快適にする類のものではなく、トラブルを未然に回避するという意味では簡易トイレや晴れた日のレインウェアなどと同じ意味合いのものかもしれません。

 

今年の山登りを振り返ったとき、登山道入口に大口開けた熊イラスト共に熊出没注意!の看板を見つけたあの時の「山登りのリスク」を実感した瞬間ってのはそこそこのハイライトでした。

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事実その後の大峰山、白山でも熊以外ではありましたが、色んな山登りのリスクを実感することがありましたし。

こういうリスクを背負って何故登るのか…は自分の場合は良い景色を見たいからという一点になりますが、そのリスクが何故発生するかって突き詰めると、本来的には人の生活圏ではない山にわざわざ入っていくからということになるでしょう。

熊鈴をつけてチリンチリン鳴らしながら登山道を歩いているとき、出発地点に再びたどり着いて下山完了となったときに熊鈴を外して鳴らないように処理するとき、そういう境界線に入ったり出たりする感覚を得るんですね。

 

 

 

熊…といえば思い出す作品がありますな。ある時期の日本各地で有志が招致するというかたちで上映されていた作品『降りてゆく生き方』

 

いまや公式HPが存在しないので、作品のあらすじはこの映画を鑑賞した国会議員ブログより引用します

 武田鉄矢さんが演じる主人公は、外資系ファンドの窓際社員。ラストチャンスで、ある過疎の田舎の土地を買収し、リゾート開発をする責任者に。

 そして、腐敗した市長と癒着し、村人をだまし、着実に成果を上げていきます。

 しかし、大学の同級生が本物の日本酒を作ろうとしていたことや、無農薬無肥料の自然栽培のコメを作っている農家に出会う中で、最後は会社の方針に背き、村を守ります。

 そのため、市長選挙に立候補した同級生の息子を応援し、腐敗した市長に勝ちます。

 これまでの強欲な資本主義への疑い、自然栽培の農業や、酒造りに大事な発酵の本質に触れる中で、「足し算的な上昇志向」だけの人生を捨て、「降りてゆく生き方」を選択するプロセスが描かれます。

shuheikishimoto.jp

 

この作品、私も鑑賞したことがあるのですが、今年の山行を通じて、この作品中で気になるシーンが思い起こされました。

この作中、熊という動物が「共生する自然」「畏怖すべき自然」の象徴のような対象として登場するんですね。

武田鉄矢演じる主人公の川本五十六が山の中で熊に追い立てられて自分の上昇志向の生き方を見直すシーンとか。

自然栽培米農家さんが子熊を保護し、地域の子供達と遊ばせたり森に帰したり。

物語終盤の市長選においては主人公の同級生息子が自然共生派として立候補しますが、彼の演説の行く先々で先程の子熊が登場し話題になる。それをよく思わない開発バンザイの対立候補が地元猟友会に命じて熊を撃つなど…。

 

いや…あの…。

 

熊と馴れ合ってんじゃねえ!!!!

 

いいっすか、熊に人の食事の味を覚えさせることがどれだけ危険か。

挙げ句人馴れさせた熊を「こいつの生きる場所はここじゃない」って森に帰す!?

冗談きついぜ、おいおい。

 

人の生活圏と自然が緩やかに交わったところが里山、そこの荒廃が森の野生動物が人の生活圏に入ってくる原因になっていて問題となってますが…。

古式ゆかしい里山ぐらしでも野生動物とキャッキャウフフで触れ合って好き勝手かわいがった挙げ句森に帰すなんてしねえだろう!?イノシシや鹿対策はするし、猿だってエアガンで撃つのだ。

上っていく生き方を否定し、降りてゆく生き方を是とするスタンスは結構。

しかしその表現の仕方が「森のくまさんと仲良くしよー」でいいのか!?

 

いや、創作物におけるリアリティラインって別に現実に則したものである必要はないと思っているんですよ。

原付きの二人乗り描写がすべて悪ではないし、急いで目的に向かう主人公が阪急電車と同じくらいのスピードで走ったとしてもわざわざツッコんだりはしない。それは別に芯にかかわる部分ではないからです。

 

どっこい降りてゆく生き方における熊の描写、これはこの作品における芯の部分であるにも関わらず受け入れられない程に気になってしまう。

 

川本五十六が親熊に追い立てられて自分の半生を反省するシーン、これは別にいい。そういう人智を超えた存在として野生の熊を描写する、それが不用意に踏み込んだ野山に出現すること自体は作品のテーマともブレないとは思うんです。

 

しかし子熊の保護、子供とのふれあい、森に帰す、挙げ句応援演説にやってくる子熊(ほらみろ!人を怖がらないし餌付けしたからこっちにきてるじゃないか!)、それを射殺する猟友会を批判的に描く描写。これらすべてが微妙。

別にこれ現実に悪影響(子供が真似したらどうするの!みたいな)のある熊描写表現がダメ、というわけではなくて。

NO開発、YES自然愛好みたいなテーマを延々掲げてるのに、そのテーマを真面目に考えた結果の熊表現描写がこれでいいのか…?ってこと。

まあ、それ言い出したら作中全体を通しての「自然サイコー!」感に埋もれた表現も俺はあんまり相容れない部分ではあったが…。そんな簡単なもんじゃないって…って。

 

 

山には山の生態系、圏域があり人には人の生活圏がある。

登山って趣味をやってるとそういうことを感じる時間がままあります。その圏域を超えて踏み入る行為は自然破壊の誹りを免れるものではないですが…。

そういうことから目をそらして人の生活圏域が自然に飲み込まれることを是とし、自然サイコーって言えるの、半ば羨ましくさえありますね…。共生、自然保護ってそんな単純なことなんだろうか…。

 

 

夏の終わりに今年の山行を振り返ってみると、自分は今年もくまさんに会うことはなかったですし、それで良かった。出会ってしまうとお互いに不幸なことにしかならないので。

そんな中で熊とのふれあいをここまで無邪気に是として描いてた作品があったことを思い出し、やっぱ俺は相容れねえな…と確認したので備忘録しておきます。