人生、東奔西走

自分の人生の備忘録のつもりで作りました。

再び、生活の転換

2024年の年末最終営業日、関東進出以降お世話になっていた勤め先の最終出勤日を迎え、以降4ヶ月弱の無職期間に入っていた…。

 

というのが今回のお話。

 

年始〜先月にかけて、対面で会う機会のある人たちにはこの事情を一応話すことができたので、ようやくブログにまとめようと思います。話しておきたいな…と思う何人かには会うタイミングが無くてここで初出しになってしまうことは申し訳ないけど、もう新生活も始まって2ヶ月余り経っているからタイミングとしてはここらだろう。

 

2021年8月に所沢に引越し、9月には仕事も始め、そこから3年以上。一つの勤め先に3年以上いた方がいいというロジックの信奉者ではないから、そこからそこそこ続いたのは悪くない職場だったからだ。

 

そこから今回の選択に至るに何があったのか。ここもまた自分の備忘録として書ける範囲で残しておきたい。

 

まず2023年末くらいから、人を指導するというものが業務の中に入ってきた。これが一つのきっかけ。

勤務時間中にいくらか時間を割いて進捗の確認や方法論のレクチャー。具体的な技能のやり方を教えると言うよりは仕事に対するスタンスを指導して欲しいというもの。

この指導がうまくいかないからといって自分が叱責されるとか評価が悪くなるということは全くなく、指導のフィードバックを上席と話し合って、指導論について自分も改善を見ていく。

さて、では業務上そんなに負荷の高くなさそうなこれの何がそんなに問題だったのか。

 

…いや、あのこれそんなに負荷低い話ですか?

これは個人差だと思う。しかし自分にとっては結構重い話だった。

上司からは新人に対して「こう仕事を進めるように指導して欲しい」というオーダーがあり、自分としてもその意に沿うようにやってくれるように諸々指導指摘をしていく。だが、一向に改善を見られない。(これには自分と対象者が別部署の人間であって、仕事中に常時監視はできない、業務内容を把握しているわけではないというところも原因だったと思う)

 

この最中に自分の中に他者を叱るとか強めに言うという選択肢がないことに気がついた。これは昨今の時節柄のためというよりは、自分元来の気質だと思う。

理詰めなりで一生懸命説明することは指導する側の自己満足であって、相手がちゃんと変わるかどうかというのが肝要。結局自分にはそこの部分の能力がなかったのだろう。

人を変えられない、そう書くとそれはその通りだが、世の上司上席先輩はどうやっているのか。それとも自分がとびきり運の悪いサンプルAを引いてしまって打つ手がなかっただけなのか。

なんにせよ、暖簾に腕押しと自分が感じていたこの指導業務がとことんに自分を疲弊させていった。フラストレーションの原因になっていった。自分の業務時間を割いて実施しているのに成果の得られない徒労。

しかしこの人を指導する側に回るってこと、会社内で働き続けている限り、タイミングの差こそあれ逃れられないタスクになるだろうとも思っていた。この頃脳内には「会社勤めが本当に向いてない」とかなりの頻度でリフレインしていた。おそらくではなく確定で向いてない。

 

往復4時間という通勤時間も相まってダメージが蓄積していく。

電車に乗らずに済むようになった今ならよくわかる。満員電車は本当に人間性を削っていく。

関東進出後しばらくは「電車乗ってる間はYouTube見るなり音楽聴くなりボヘーっと過ごしていればいいだろう」とこの通勤時間を楽観視していたが大馬鹿もんだった。

おおよそパーソナルスペースの余地を極限まで削り取ることで成り立っている首都圏のコアタイム電車通勤は、なるほど音楽くらいは聴けるだろうが、それは鎮痛剤としての服用という意味で、電車通勤時間を有意義なインプットタイムとして使うことはあまりできなかった。

西武鉄道JR東日本他関東各鉄道会社の名誉のために言っておくと、まったく身動きも取れないということではない。実際周囲では頑張ってゲームプレイしたら、アニメドラマを視聴している人も結構いたし、自分も元気があればそうする日もあった。

再び個人差という言葉を使わせてもらうけど、四国にいた時に「公共交通機関だとパーソナルスペースがないからなぁ…」で平気で大阪くらいまでなら車移動を好んでた自分である。

電車移動への耐性の低さ、親愛なる西武鉄道というバフをもってしても日々の負荷になっていた。

 

こうした諸々の事情があり、せめて通勤は…と所沢辺りで働こうかなと思い始めたのが2023年の年度末くらいから。

その後年度変わって4月に、所沢にもう全部移したいということで退職の意向を伝える。

勤務先の体制変更みたいなこともあって、経験者が自分だけになる事情などもあり、引き継ぎについては自分も協力するのでということで9ヶ月後の2024年末を目処に…ということで話がまとまりました。

 

前段が長くなった。何はともあれ

そして最終出勤日の12月28日。

こちらからはほとんど仕事という仕事のない最終日。社長面談という形で最後の手続きをしていた。その時の会話で「今後何か夢はあるのかね」という話になり、次の仕事も決まっていなかったし、職業は夢ではなくて生活の方法であるからと思い「まぁ、こっちに来たのもライオンズのことがあってですし、シーズンシートでも買って一年応援できるような余生がいつか送れたらいいなと思います」というようなニュアンスのことを話した。

 

これが午前11時45分ごろのこと。

お世話になりましたと面談を終えて昼休みに入った自分の目に飛び込んできたのが、例の源田の週刊誌報道だった…というのは最強クラスのタイミングの悪さで笑ってしまった。いや、笑い事ではないのだが…。

 

しかし、なんにせよ。そういう大ダメージはあったもののこの日の最後の退勤を終えた時の開放感みたいなものは覚えている。少なくとも、当面。夏くらいまではゆるゆると次の仕事探しながら生活しよう、インプットも山のように…と。

 

 

1月には実家に帰り長めの帰省を終えた後所沢に帰還。

ハロワでの失業者登録はしたものの、自己都合失業者は失業手当までの待機帰還もあるし、その時期は開き直ってゆっくりしようと図書館から本借りて読みまくったり、パワプロの143試合史実スタメン手動ペナントを終わらせたり、1stガンダム完走したり…色々やってました。

ただ、自分の感覚としては思ったよりもインプットができない。節約しながらだと生活するのにも結構ターン数食うんだなという実感はありました。

それに目減りする一方の通帳残高と睨めっこしながらの夏までフリーというのは、やっぱり多分精神的にはプレッシャーがかかっていたのだと思う。今にして思えば。

それでいて本格的に切り詰めるとそのことを自覚してしまいそうで、変に節約に振り切れなかったのもある。昼下がりにコメダ行って本読んだりとかそんなこともしちゃっていたり…。

 

2月に入るとキャンプが始まったので日々ライオンズを追いながらそういう生活を続けていました。

3月に入るとオープン戦も始まる。

地獄の2024年シーズンを終えて…今年は西口監督をいただき、ライオンズ今年はやれんのか?蓋を開けてみるまで分からないが…。ともかくも、かかりすぎていた。

地元を離れ埼玉へ、そういう選択を単にチーム順位だけで正解、不正解を論ずることはできないだろうけど、それでもあんな思いはしたくない。それも西口監督の元で…。

稼頭央監督のファンはこんな切迫感で日々を過ごしていたのだろうかと思うと頭の下がる思いさえする。

なんにせよ、一見順調そうなキャンプ、オープン戦を経てのシーズンイン直前、今シーズンにかける意気込みってものにかなり押し込まれていました。

 

もう一つ、この頃実家からいろいろとよくない状況の話が漏れ聞こえてきたということ。

家族の体調だったり生活の状況だったり。

その結果としては自分の無職継続可能期間が短くなって、早々に働き始めた方がいいだろうなと思うことにもなったりしたのですけど。

 

こういうことがあって3月後半、夜の寝つきが異常に悪くなって、ある時は吐いて目が覚めるなんてことも起きたりしていて、今振り返るとあの時期が精神的な底だったろうな…と思うわけです。

 

この時に実家からの電話で言われたこととして「いざという時に頼る人間はもう他におらん」というものがあり、「俺しかおらんのか…」という怖さがあった。

仕事辞めていることはこの時点で伝えてなくて、再度安定してからでいいだろうと思っていた。

しかし、次頼られた時にはもう無い袖は振れない。労働再開前にその時が来た場合、実は俺も無職やってますというのは…なんかありありと我が家の崩壊が見えてしまった。

 

地獄の2024シーズンを脱却できるのか…?という2025年シーズン開幕直前の怖さと自分を取り巻く私的環境の恐ろしさ。ダブルパンチで結構参っていたことを思い出す。布団に入って寝なくては…と思いながらもそういう恐ろしさが堂々巡りで、起き上がってはPCに向かってハロワの求人をそれとなく探す。こんなことを焦燥感と動悸と共に延々繰り返していたら、まぁ消耗する。

 

このことがあり、4月に入ってから結構すぐさま動き始め、ほどなく次の仕事は決まった。

現在ドライバーやってまして、軽トラを駆って埼玉を中心に首都圏を巡っています。

新しい仕事の話はまぁそのうち機会があれば書くかもしれない。体はしんどいけど、運転は嫌いではないし、結構性に合ってる部分もあるなと感じる。なんにせよ、しばらくは一生懸命働かないといけない。

 

というのも、仕事が決まってからすぐに2週間ほど稼働開始まで待ってもらい、その間に急いで長年の夢であった北海道を一周旅行をかましてきた。納沙布岬宗谷岬をしばき倒して、これにて日本列島を構成する主要4島の東西南北それぞれの端を踏破することができた。この旅行記はおいおいじっくりやる。

なんにせよ、無職生活のフィニッシュに相応しくパーっとやってしまったわけ。

 

実家の懸念がある中、俺の行動はチグハグだなあ…とブログ書いてても思う。でもまぁこのタイミングを逃せばしばらくまとまった空白期間はないだろうし、見事な旅行に後悔はない。

 

チグハグ感の原因は明らかで、実家のことは心配であるしいざ何事かが起きた時に見捨てることはできないだろうなと思いながら、それでいてそこを第一優先にするほど義理堅くもない自分の生き方故だと思う。本当に家族想いなら今でも愛媛で暮らしているだろう。

なんかの要請があった時に拒絶できないのは、それをしたときに自分が耐えられないだろうからで、自分可愛さなのだと自覚もしている。

今更このあたりのメンタリティは変えられないだろうから、もう割り切ってやっていくしかない。

 

話を戻して、以上年明けからの4月過ぎまでの振り返りでした。

今振り返ってみて、本当に今年の開幕三連敗は勘弁してくれよ…と思った。よくそこから立て直したけども、あのホーム三連敗を受けての「今年もあかんのか…?この地獄の渦中をよりにもよって西口監督のシーズンで進んでいかないといけないのか」という焦燥…というよりほどんど爆発手前みたいな、はち切れそうな緊張感だったと思う。

 

 

そしてこの記事を書いていて気がついたこと。

実家からの連絡のくだりで書いた「いざという時に頼る人間はもう他におらん」という自分を崖っぷちに追い詰めたような言葉だけど、文字にしてブログを書いている今、西口監督の就任時の話を思い出した。

 

――1軍監督の就任を打診されたときのお気持ち。例えば、受けるかどうかっていうところで、何か揺らぎがあったりとか迷いがあった末の決断だったのかっていうのを教えていただきたいのと、本部長には、オファーをされたときに、どういうような口説き文句でオファーされたのかっていうのを教えていただけますでしょうか?

飯田 もうあなたしかいないです。もうお前しかいないと。わかってるでしょうと。チームの今の状況も全てわかってるし、実績もファームの監督として3年積み上げてきたし、もうチームの課題も戦力の状況もわかってるんで、西口しかいないんだよ。監督しかいないんで、ぜひよろしく頼むというところです。

西口 今の言葉をいただいて、心の中で俺しかいないのかとは思ってないですよ。大体ひと月ぐらい前にお話をいただいて、そこで少し考える時間をいただきましたけども、自分の中では、その考えてる間に勝てるチームっていうか、勝つようなチームにしていけるかなっていうことを考えた上でご返事させていただきました。

――ということでしたら、気もちがあって、それでもう受けるっていう前提で考えられてたっていうことでしょうか。どうやってチームを強くするかというと、すぐにもお話があった時にも気が向いたっていうのか。前向きだったっていうことですか。

西口 だからさっき本部長がおっしゃられたように、お前しかいないと言われたら俺しかいないのか。だから考えました。

西武・西口監督就任会見全文公開。「今、この場にいることが夢心地です」。 : 限界突パ

 

西口監督は今シーズンの監督受諾に際して「もうあなたしかいない」と要請され、「俺しかいないのか…」と腹をくくって受諾した。

自分も開幕前のブログでこのエピソードを引用している。

なぜあのとき…、「これ西口監督要請時の話を同じじゃん!」と思えなかったのか。そう思えば、思い込みの力であれほど追い詰められることはなかったんじゃないか?

今無理やり答えを出そうとすると、開幕直前の自分はそこに思い至れないほどに、2025シーズンと先の決まっていない生活を不安視し、余裕がなかったということなんだろうなあ。

 

さて、明日からはリーグ戦が再開する。首位ファイターズを迎えてのホーム3連戦。今井、隅田を再び同一カードに寄せての勝負。

本当に…まさか2025年シーズンここまで戦えるとはという驚きがある。外野が…本当に埋まるとは…。西川が活躍するたびに熱いものがこみあげてくるような感動がある。

これ以上、続けると話が逸れちゃうのでおしまいにしますが…。

 

まあ、なんにせよ生活、再び変わりましたというお知らせでした。