労働による高ストレスからの動悸であるのは結構確定事項っぽさがあるここ最近。
そんな折、今週から左耳が復活して両耳イヤホンに戻れたのは僥倖でした。
両耳イヤホンのいいところは外界との断絶ですよ。
ノイキャン発動して、雑音シャットダウンすればメンタル回復の時間。ASMRでも音楽でも動画でもなんでも好きなもので耳を埋めりゃいい。
最近、退勤後の最寄駅での待ち時間でまずこれから…と見始める動画があります。こちら
【LIVE映像】結束バンド「忘れてやらない」LIVE at 秀華祭/ 「ぼっち・ざ・ろっく!」劇中曲 - YouTube
ぼざろ最終回のライブシーン1曲目。
サビのメロディラインにジーンと来るんだよな…なんだろう。
ラスサビで満員の体育館ではなくて祭りの終わりを感じさせる無人の校内各所のカットが挟まるのもいい。
この話を通じて何を言いたいかって話なんですが。
自分が明確に気力、体力的にタフな時期を過ごしている自覚がある時、自分で自分にバフをかけにいきますよね?
最近、そのバフの方法に出し惜しみを感じるようになったなって話。
過去ブログでも話しているとこなんですが。
「誰でもいいから助けてくれ!」というようなシチュエーションになった時に頼るべきMCのシーンがあって、逆にちょっとやそっとでは引っ張り出してこないからもう数年寝かせているライブBlu-rayのあるシーンがあるというような。
あれと同ベクトルのことを最近しているなと。
しんどいのなら頼ればいい。『スタートライン』でも『人として』でも『俺の人生真ん中あたり』でも『Always』でも、『ファイティングポーズの詩』『歩いていくもん』でも。
動画にしてもそう。YouTubeで高評価をつけているそういういざって時のためのエース動画群。ASMRにも明確にそういうスタートラックはある。
そういう「ちょっと生きるの手伝ってくれ」打線は自分の中にいざって時のために存在している。
が、最近そういう歴代オールスターではなくて、もう少し手前、時系列においては現在に近いところにあるものたちに助けてもらおうとしている。
そこには選択や思考の行程があって、労力なしに引っ張り出してこられるものではないのだけど…。
無意識でも持ってこられる助っ人に頼るのが減っているのは、擦り減り→回復を自覚なく繰り返すそういう人生にしたくないという気持ちもあるのかもしれないですね。
摩耗していくのは結構。
ただ、何によって疲弊して、何によって復活したのか。自分を復活させてくれた色々への感情を私は恩と呼び、それにより縁ができたなとみなす。
そういうやりとりをこれからも忘れずにやっていかないと、あの日、あの日に助けてくれた色々な物事のことも褪せてしまいそうで。雑に消費しないということでもあるのかな。
生きるのを手伝ってもらっている諸々、何一つ忘れてやらない。その意気込みでいこう。言うことばかりは立派であるが。
しかしまぁシーズンが始まってもこんな状態では、俺が故郷を出た意味がない。はて…。
119.2