昔、3年B組金八先生を見ていてこんな台詞があったのを思い出す。
天然資源のないこの国唯一の資源は、君たち若者の夢見る力です
夢を見ることは素晴らしい、きっと夢を諦めないのは美しい。
そうなんだろうなあ、と思う一方で、それにしっくり来ない自分がいる。
夢を追うこと、諦めないことを美徳とするのは結構だけど、それを逃げ道にしているんじゃないかと思うような出来事が最近あっただけの話なんだけど。
幼稚園のころの手形型メッセージボードに残っている将来の夢はウルトラマンティガ。平成30年現在、俺は光になっていない。
小学生の頃の将来の夢はプロ野球選手。ライオンズの先発事情を自ら救うに至らず。
卒業間近の将来の夢は映画監督。ゴジラは勝手に復活した。
その後中高生の頃の将来の夢はアナウンサー。羽鳥さんは未だに朝の顔をやっているし、ズームイン自体がなくなってしまった。
そして、2018年。現在俺はしがない地方都市でサラリーマンをやっているわけだけど、人は俺を夢破れたというんだろうか。
上記の夢は漠然と「なりたいなあ」と思っていた程度のものだったので、我が身をわきまえて、落ち着くべきところに落ち着いたという言い方でもいいかもしれない。
それがそんなに悪いことだとは思わないんだけどなあ…。
やりたい・なりたいという気持ちを持つことは自由だと思う。ただ、それをいつまでも持っていられないというところもあると思うんだよ。
そのことから目を逸らして「俺は、自分の人生に悔いは残さねえ」と言って生き続けていたら、いつかもう分岐点やロータリーのないところまでいってしまうんじゃないか。
いやまあ、夢追い人を馬鹿にしているわけじゃないんだよ。もっと言えば、俺はそういうストーリーが非常に好みなわけだし。ただ、そういう俺が好む夢追い人は皆、自分が諦めないことに対する代償は自分の人生の中から払っているんだよな。もしくは、その覚悟がある。
それをなしにして、ただ自分の夢を追うというのは、エゴだとも思うんだよな…。
一番腹の立つのは、こういうことを言ったら「夢を途中で諦めた夢破れ人が、同じ後悔を人に味あわせたくて、こういうことを言っている」と思われることだ。
違うんだよな…。確かに俺はアナウンサーでも映画監督でも、レオのエースでも光の巨人でもないけども、今の人生が割りと幸せなんだよな…。
人からみたら妥協の果てにたどり着いた現在地だとしても、俺はそこそこ楽しんでいる。そもそも妥協したつもりもなくて、その時点時点で自分が悩んで結論をだした選択なら、今見て間違ってても、その時点で正解ならその選択は正しいんだよ。
そんな現在の視点から過去の歴史を断罪するみたいな真似を、自分の人生でやってなにが楽しいのか。
そのそこそこ楽しんでいる、「妥協した人間」の人生を、「夢を追ってる人間」がくいものにすることは断じて許さない。
俺は今日も明日も楽しさをモットーに生きている。それが今の俺の夢なんだから、邪魔をしてくれるな。ただそれだけ一点。