人生、東奔西走

自分の人生の備忘録のつもりで作りました。

ライオンズファンになったのは西暦何年なのかを確定させるための諸調査

皆様、新年あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

さて、2026年となりました。今年の持つ意味合いは11月下旬にライオンズ栗山巧選手の契約更改時の記者会見でもって大きく変わりました。

締めくくりの一年となる2026年シーズン、チームに何を残していくのか自分も可能な限り追いかけたいと思います。

 

そんな2026年シーズンを迎えるにあたり、長年棚上げにしていた自分を規定するデータを調べておこうと思いました。

ずばり「自分が西武ライオンズファンになったのはいつなのか」という点です。

一回はっきりさせておこうと思いまして。それでは早速振り返っていきましょう。

 

 

エピソードで振り返るライオンズファンが確定している年代

現在は2026年。自分の記憶の中にあるライオンズに絡むエピソードを遡っていくことで、この時点では間違いなくライオンズファンだったなというのを、まず抑えていきます。

 

2011年、大学進学した自分は1年目の秋に西武ドームに野球を観に行きます。これが初めての西武ドームでこの時点でライオンズファンであることは自覚でも客観的にも明らかだと言えます。

 

さらに遡るって2008年。高校1年生の自分は汗かきであることも手伝って、常時スポーツタオルを手放さずにいました。高1のときに使っていたのは当時チームスローガンNoLimitデザインの西口文也タオルでした。

首からぶら下げている水色のタオル、遠目からでも自分を認識するのに役立っていたようで、このタオルを見かけて自転車で帰っている途中に友人の親御さんに声をかけられるというようなこともありました。

ちなみに、このタオルはあるタイミングの全校集会で紛失してしまい、その後学校中をひっくり返す勢いで探したものの、ついぞ見つからず。

なんにせよ2008年時点でもライオンズファンだったと言えるでしょう。

 

2005年、中学1年生のとき。自分の中学校は地元の小学校2つから生徒が繰り上がってくるところだったのですが、そこに中学入学のタイミングで福岡から引っ越してきた生徒が一人いました。

同じクラスだった彼と話すと、彼もプロ野球ファンであるということが発覚。ホークスファンだった彼は、前年2004年のパ・リーグプレーオフについて「勝率2位チームがプレーオフに勝ったからといって優勝まで変わるのはおかしい」という趣旨の意見を表明していました。

それに対して自分はそれがルールとして決まっているのだから、我が西武ライオンズが優勝チームである、と反論。

ほぼほぼ初対面の転校生を相手にしても怯まずに自説を述べていたあたり、2005年もライオンズファンでした。

 

2002年は小学4年生。この年の日本シリーズジャイアンツに4連敗を喫したことを、同級生に煽られ、そのことで口喧嘩となり、内心で「今に見ておれよ…」と怒りを燃やしていたことを覚えています。

2002年時点で、相当に仕上がったライオンズファンだったと言えるでしょう。

この年は本当にシーズン強くて、NHKサタデースポーツサンデースポーツ、他民放のスポニューでのライオンズ特集を見るたびに悦に入っていたのを思い出します。

この年は親が家を立てる前年、団地暮らしの最終年で、団地の間取りではテレビのある部屋が家族の共用部しかなく、スポニューのチャンネル争いをよくしていました。弟に対して、巨人戦は地上波でやるんだからスポニューくらいは西武を見せろという論旨で戦っていたように思います。

 

2002年時点である程度まで仕上がっていたライオンズファンとしての自分。

主にシーズン順位、ないし学年を特定することで西暦が確定している思い出エピソードはここまでで、此処から先は状況証拠を集めていかないといけないわけです。

 

高知春野キャンプの年代特定

 

そもそもなぜ自分がライオンズファンになったのかという原点においては、高知の春野で行われていた西武ライオンズキャンプを忘れることはできません。

当時、ライオンズの若手だった松坂大輔投手。この人気があって両親はライオンズのキャンプへ連れて行ってくれたはずなのです。

2002年前後の話をすれば、安芸市阪神高知市営球場でダイエーがキャンプを行っていて、それら2球団も候補として上がったでしょうが、プロ野球ファンではない母としては、重要だったのは松坂がいるかどうかだったのでしょう。

 

そういう事情で初めてプロ野球というものに触れたのがライオンズでした。

それをきっかけにライオンズファンとなり今日に至るわけです。

 

今までこのキャンプが何年だったのかを思い出せずにいたのでそれをしっかり調査したいと思います。

家族で遠出としての高知キャンプは2年行きました。その連続する2年がどこだったのかを特定すればいいわけです。

 

キャンプを見に行ったときのエピソードとして覚えているものを列挙してみます。

・初めて行ったキャンプで、他のちびっこたちとともに、助っ人外国人選手にサインを貰いに殺到したがもらえずに終わった。その選手はスコット・マクレーンだったらしい。

・2年目には勝手がわかり、高木大成赤田将吾田原晃司にサインをもらう。

・2年目のキャンプには筋肉番付の収録が来ていて、松井稼頭央犬伏稔昌がスプレーヒッターに挑戦していた。

 

 

田原選手にサインをもらったというの、当時は細川亨選手からもらったのだと思っていたのですが、背番号68の選手にもらったという記憶を頼りに調べ直すと68は田原選手だったんですね。このように記憶の不確実性をみせつけられながら、上の情報からこの年度を確かめていきたいと思います。

 

 

まず一番在籍年数で絞りやすいのはマクレーン。

カブレラツインバズーカとして名を馳せたマクレーンのライオンズ在籍年数は2001~2004の4年間。

実はこれがかなり肝で、2002年の日本シリーズ結果での西武ファンとしての立場から級友との口論を起こすためには、マクレーンにサインを貰いそこねる最初のキャンプは2003年、2004年ではあり得ないのです。(もっというと2004年のマクレーンはシーズン途中での再入団のため04年は端から除外される)

つまり、マクレーンにサインを貰いそこねたのが2001年か2002年かを証明すればいいということになります。

 

高木大成、赤田、田原の各選手の在籍年数はこの01年、02年に跨っているため特定する要素にはなり得ない。松井稼頭央、犬伏の二人も同様です。

 

が、筋肉番付の企画挑戦に犬伏が選出されたというのは一つヒントになりえるかもしれません。

犬伏が活躍したのは2002年シーズンのこと。2002年ライオンズはスタメン3番の打順を相手先発の左右に応じて犬伏と宮地使い分けており、左殺しの犬伏として活躍したのでした。

松井と並んでの企画選出というのはこの活躍を受けてのことで、であれば、2年目のキャンプは犬伏飛躍の翌シーズン2003年のキャンプなのではないでしょうか。

 

そうなると2002年の春野キャンプが自分が初めて西武を見に行った機会となるのでしょうか。

こちらについては前述のマクレーンエピソードのみに頼っているのですが、2001年の来日直後の助っ人を選手を認識してちびっ子が群がるというのも考えづらく、ツインバズーカとして有名になった後の2002年の光景と考えると自然です。

 

観に行った春野キャンプは2002年と2003年だったと見ることができそうです。

ではこの2002年が自分のライオンズファンとしてのスタートなのでしょうか。もう少しだけ自分の記憶を遡ってみたいと思います。

 

 

少年野球と実況パワフルプロ野球と2001年プロ野球

自分は小学3年生から少年野球をやっていました。5年生の途中まで2年半ほどの間です。

少年野球を始めたタイミングは2001年となるわけですが、その時点では西武ファンではなかったのでしょうか?

当時人数を確保したかった同級生に誘われた際に、やろうかやるまいか、だいぶ悩んだことを覚えているのですが、このときにライオンズのことに絡んで思考した記憶がないんですよね…。

今日の自分から見ると、もしこの時すでにライオンズファンだったのなら思考や判断の基準として西武ライオンズは絡んできているはずと思うのです。

少年野球を始めたときに、プロ野球ファン、西武ファンであるという意識はなかった。けども、ここが野球というスポーツへの入口になったわけです。

 

少年野球を始めた自分は市立図書館なんかで野球の児童書を借りてきて、打順や守備位置についての意味を知ろうとしていたことを思い出します。まったくもってデータくんの行動みたくて笑ってしまうんですが。

 

そして、野球を始めたこの2001年に人生初のパワプロを購入しています。

64のパワプロ2001です。

パワプロの2001であるということはサクセスのないソフトであったということで間違いないと思います。

また収録選手データをみても相違ないと思います。潮崎のコンスタADやボーリックのミパDA、ウィルソンの守備がGGGであることなどそうそうこれだったなと。

パワプロを通じて当時のプロ野球選手に親しんでいったのだろうと思い返されます。

巨人戦ばかりが地上波中継され、交流戦もなかった当時、特にパ・リーグの選手のイメージを掴むためにパワプロが果たした役割は自分にとって大きかったと思います。

 

 

こうして野球とプロ野球とに接するようになった2001年シーズン、この年のプロ野球いてまえ打線近鉄バファローズが北川の代打逆転サヨナラ満塁ホームランで優勝を決めるという劇的なシーズンでした。当時学校でもこのHRは随分話題になりました。

 

この年西武はダイエー近鉄と三つ巴の優勝争いをしていて、その佳境の9月後半には中村紀洋が松坂からサヨナラ2ランを放つなど、やはり劇的なチームの勢いを象徴するような展開もありました。

逆説的ではあるのですが、2001年シーズンのこのあたりについて、記録としては知っていても記憶としては憶えていない。悔しさと主に思い出さないということは、2001年時点での自分がまだライオンズファンではなかったということの証跡となるような気がするのです。

 

 

2002年からライオンズファンになったということ

以上のように参加した春野キャンプの年代の特定、そして2001年時点での自分の記憶を頼りに、私がライオンズファンになったのは2002年からだと結論づけることにしました。

 

つまり、ファンになったその年にハチャメチャな強さを見せてシーズンを圧勝し、その日本シリーズで4連敗を食らうという、なんともまあジェットコースターな展開を見せられたというわけですか。

2002年日本シリーズ後の級友との口論について「ファン歴1年でそんなになるほど思い入れるか?」と思われるかもしれませんが、自分はなにかにつけ自分の信じたものへの執着は強い方だと自負しています。

1年目であってもファイティングポーズをとるのは十分にある話だなと思います。

 

そしてもう一つ、2002年を自分のライオンズファン1年目とする場合、2001年ドラフトでライオンズに指名された栗山さんの在籍年間は自分のライオンズファン歴とまるまる被ることになります。

四半世紀、ライオンズファンをやってきたわけですが、その間ずっと栗山巧というプレーヤーは自分の応援するチームの力になってくれました。

2027年以降は栗山巧のいないライオンズという、自分の経験したことのない世界へと挑むことになるみたいです。

であれば、やはり、改めて、2026年シーズンの持つ意味を重く受け止めざるを得ないのです。

 

今年一年、バシッとチームを応援していく。

ファンとして25度目のシーズンを迎えます。歓喜の秋へ。新年から気持ちも新たに勝負への準備をしていきたい。二度とこない締めくくりのシーズンに向けて。