先日友人とキャンプに行った際、周りに迷惑にならない音量であれば音楽を鳴らしても良いキャンプ場だということがわかったので、いろいろ懐かしい曲ばかりを流していました。
その友人は高校の頃に一緒にバンドをやっていたので当時演奏していたBUMP OF CHICKENの曲を聴いていたのですが、「あの頃カラオケ行ったらこんな曲を歌っていた」という話題になり、そこから流したのが海援隊の『あんたが大将』『新しい人』『思えば遠くへ来たもんだ』などなど…。
高校の頃から変わってないな、いや元々は小学校の頃から変わってないという話になっちゃうけど…。
そんな海援隊の楽曲の中で、自分の中で「どういう気持ちで聞いたものか…」という楽曲があります。
基本的に私が海援隊の楽曲を聴くときというのは、「よっしゃ、頑張ろう」という張り切りをしていきたいとき、自分のいうところの「人生の応援歌」ジャンルとして聴くことが多いです。
「なんの花だろうこんな坂の途中、冬を選んで咲く花もある」
「僕は若くて間違うけれど何度も間違うけれど、だけど僕の人生は今始まったばかり」
こんな感じで、人によってはしゃらくせぇなと思われかねないような歌詞ばかりを好んで聴いているのです。
そんな海援隊の歴史を紐解く中で、語らずに避けて通れない楽曲が『母に捧げるバラード』。
今日はその楽曲を久しぶりに聴いて考えたことで記事を書こうと思います。
デビューしたての海援隊を全国区にしたこの楽曲。『贈る言葉』はこの曲の6年後にリリースなので結構時期に差があります。海援隊で最も有名な曲は『贈る言葉』で間違いないけども、海援隊というグループを知らしめたのは『母に捧げるバラード』でした。
SpotifyやAmazonミュージックなどなど各種サブスクで聴くことのできるこの楽曲。聴いてもらうとわかるんですが、ほとんど全てを武田鉄矢の母、イクさんの言った言葉が占めています。
原曲のこの曲を聴くと、その台詞パートの最終盤で以下のように語ります。
働け働け働け鉄矢
働いて働いて働き抜いて休みたいとか遊びたいとか
そんなことお前いっぺんでも思うてみろ
そん時はそん時は死ね
それが人間ぞそれが男ぞ
この前久しぶりにこの歌詞聴いて「こんなに強いワード使ってたんだっけ…」と改めて驚きました。年末来、宝くじ当てたら不労生活だ!と意気込んでいたことも原因かもしれません。できるなら労働を排除したい、そういう降りてゆく生き方を目指している節はありますからね。
今回気になったのは。人生の意義、人間とは、男とは…みたいな話をしようというのではなく、「この曲のこの歌詞って今テレビで歌えるんだろうか…」と。
働き方改革、ブラック企業なんてことが叫ばれて久しく、かくいう自分も「人生における労働の割合を減らしたい」という理由もあり転職をしたばかりの人間です。
例えば昨年の紅白でこの歌を歌っていたとしたら「いやいや働けなくなったら死ねってことかよ」と言葉尻を捉えて燃え上がっていた…かもしれません。そんな光景を割と容易に想像できるくらいには…自分の脳内というものにもずいぶんコンプライアンスが染み込んできたなあ…と思うのです。いやこれはコンプライアンスじゃなくてなんだろう。
ただまぁ、そんなふうにして燃え上がらないことに気を配る。そればかりだと面白くもない。けしからん、ばかりで人は生きていけない。面白いことしないといけないんだよ、とこの一年くらいは折に触れ思っています。
「思ってもないことは言わない」「言わなくていいことは言わない」の二つを心がけて生きてもう数年になります。
その点武田イクさんは「思ってもないことは言わない」人だろうと想像できるのですが、「言わなくてもいいことは言わない」人では決してなかったんじゃないかなと、武田鉄矢さんの語るエピソードの端々で思うのです。
でも決して「思ったことが考えなしに口から飛び出す」人でもなく、「言わないといけないことはちゃんと言う」ができる人だったんじゃないだろうか。
花の都に出て行く息子に対して、とにかく働け、さもなくば死ねと発破をかける。簡単ではない世界に飛び込む我が子に対して、その覚悟を問い、説くその言葉はイクさんにとっては言わねばならないことだったのかもしれない。
そう考えた時に我が身を顧みると、言わないといけなかろうが、それが誰かとぶつかる可能性がある時に飲み込んでしまう。そういう癖はあります。
でも言わないってことがかえって疑念や不信感を生んでしまうこともあるんじゃ…と最近はよくその可能性について考えてしまいます。
これからはもう少し、「言わなくてもいい」と判断するボーダーを下げて、ホイホイ口にしていくこともアリだと考えていきたい。実際このブログでここ最近上げた記事はそういう風に考えて書いてもいる。
2022年の俺が少しだけ過激になったとしても、まぁそう言う事情だと思って受け取ってください。
さて、最後に。
武田イクさんの「そん時は死ね」発言に一つ補足を入れておきましょう。
『母に捧げるバラード』はその台詞パートがたまに変わることがあります。
ライブやテレビ出演時によく聞くパターンとしては「最近のおなごはクラゲのごたる乳バンドして男ばたぶらかせよる」「人を指差して笑うやつはつまらん。人を笑う手の形ば見てみろ、2本は相手を指差して笑いようが、3本は自分指差して笑いよる。そんなこともわからんとか」などがあります。
さて、そんな中で気色の違うアレンジがあります。これは自分も最近初めて聴いたのですが。
海援隊が一度目の解散をする1982年。その年の福岡公演でのライブ音源。
あなたにとってただ待つだけの
私にとってただ歩くだけの
そんな十年が終わります
そんな語りから台詞パートが始まる『母に捧げるバラード』。
そんな中語られるあるエピソード。
故郷を離れて5年目、旅に疲れてうつろな顔で母のところに戻った鉄矢さん。「東京での暮らしがうまくいかない。辛くて辛くて仕方がない」と嘆いたとき。
その時のイクさんは「その時は死ね」と言うでもなく。頼みもせぬのにゴンゴン熱燗をつけて、ただ酒を勧めることしかしなかったそうです。強い言葉が必要なときにはその言葉を使うが、そうでないときにはそうしない。
そのとき、その親子の間には語るべき言葉がなかったということなのかもしれません。「言うべきことがないときに余計なことを言わない」ということ、それもまた簡単なことではありません。
そんな話があったということを一つ補足しておきます。決して厳しい言葉だけの人ではなかったということでしょうか。
しかし、強烈に残る言葉ってのは往々にして強い言葉でありがちなんじゃないだろうか。自分の人生を振り返った時に忘れがたき言葉というのは文言だけを見たら結構過激な言葉であったりするものです。
『母に捧げるバラード』は最後の一節で「僕に人生を教えてくれた」とあります。それほどの影響を与えうるにはやはり強い言葉でなければ…届かないのかもしれません。