人生、東奔西走

自分の人生の備忘録のつもりで作りました。

2014年2月 山梨豪雪の顛末

 

二週間ほど前、東日本を中心に猛威を奮った豪雪。
幸いここ愛媛では雪が舞う程度で、全然影響はなかったんですが、思い出したのは2014年2月の豪雪。
当時、俺は山梨に住んでいた就活生で、この豪雪の影響をもろに被ってしまった。

 


豪雪に振り回されたあの1週間少々。その記録がおぼろげなものとなる前に記録に残しておこうと思う。
これもまた、人生備忘録のひとつであり、そして厄除けでもある。
大雪、天候不良。今週は来てくれるなよ…。

 

  • 2014年2月14日(金)

前日に部活の飲み会があり、ゴキゲンな目覚めを迎えた8時。
その後、11時に雪が降ってるため…と言い東京に向けて早めに出発。この日は地元製菓企業の説明会があったのだ。
(ここから先の当日の状況は基本的に、俺の記憶と当時のツイッターより拝借してます。)
バレバレーバレンティンー♪などと謎の替え歌を披露しながら列車は東進。
行きはよいよい、と無事説明会を終えて、弟宅に向かう。この日は翌日にリリイベがあったため、東京で一泊の予定であった。
この頃から、暗雲立ち込め始める。雪は止むことはなく、高尾で倒木、国立では人身事故と中央線のダイヤが乱れまくっている。当時の自分はこれをみて「中央線えらいことやないか…帰るの明日でよかった」などとのたまっている。
ちなみに、この日。艦これでケッコンシステムが実装したようで、同僚提督のケッコンの模様を恨めしそうに見ていたのであった。
夜8時半ごろの写真を見ると、新宿でも積雪は10cmをこえている。

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21時前には富士急が運休。西武線も1時間の遅れ、ニュース9のトップニュースが八王子駅からお送りされるなど、災害の様相を呈してくる。
だが、まだJRと富士急の力を信じ、楽観的安眠につく。

 

  • 2014年2月15日(土)

朝8時。目覚めると、富士急の週日運休のニュースを見る。
この日はミリオンLTHのリリイベであった。久しぶりの原さん、山崎さんを楽しみにしつつ、ミリオンイベは初であった。
大雪の最中、艦これにアイマスにと自分の人生を取り囲むものが目まぐるしく動き始める。交通機関は止まっても、人生は止まってくれないのだ。
弟にもう一泊を頼み、諸々出かける予定とする。
ツイッターで「長門って有希なので、僕は好きです。」と発言。
ここで重大な失敗に気がつく。奨学金の継続手続きを終えないまま、山梨を出てしまっていたのだった。そのことを気にしつつも春のライオンズオープン戦のチケット引き換え、開幕戦のチケット確保など精力的に活動する。
大月駅で取り残されている友人や、山梨への自衛隊出動などいよいよ大事感がましてくる。
そんな中、新宿バルト9で劇場版アイマスを視聴。ほんとめっちゃ動いてる…今の俺では想像できんぞ、このアクティビティ…。
映画を見終わると同時に、富士急区間の徒歩を覚悟し始める。10㌔ならいけるだろという発言も見え始める。(14時半時点で高尾以西の鉄道は全滅)
大家さんにラインをして情報収集。公民館が避難所として開放されているとのこと。そして、返信「アパート前の救出が終わりました。」この発言の真意をしるのは帰宅後となる。
両親に連絡し、タクシーで帰る可能性を伝える。東急ハンズでゴム製の靴カバーをホッカイロを購入。腹をくくり始める。17時7分のツイートで「高尾から40㌔行脚となると、怪我くらいは覚悟しますが…」ととうとうJR区間の不通を覚悟し始める。
どっこい、超至近距離ミリオンイベを挟んで心変わり「はらみーに気をつけて帰ってくださいねと言われたので、雪中行軍はやめます」(19時26分)
また、ミリオンイベ待ちの間の両親との会話を聞いた周囲のプロデューサーにも励まされ、また来週会いましょうという男の約束を交わす。
20時から21時位にかけて、延々JRへの応援ツイートが繰り返される。藁にもすがる思いとはこのことか。
不安を抱えての就寝。

 

  • 2014年2月16日(日)

朝4時57分起床。5時半前に弟宅を出立。7時15分に高尾駅着。肝心要の国道20号が高尾ですでに50cmクラスの積雪で心が折れそうになる。

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しかもその国道20号が途中で通行止め。高尾待機をするものの、高尾のコンビニでさえ、日販ものの流通はストップしており、絶望感を味わう。この時点で二日後までの就活イベントをすべてキャンセル。
「明日なんとか帰って、いろいろ準備して、木曜日に荷物片っ端からもって東京かな」(8時32分)
金曜日に帰っていれば…という想いが脳裏をよぎるも「あの時点での自分の判断としては、これが最善」と今と変わらぬ、メンタリティを見せる。
高尾駅で駅員さんに、明日なら途中までは動くかも…というニュースを得て、作戦を立案。
「【明日以降の都留にオーバーロード作戦】
⓪スーツや荷物は一部を除いて弟宅に放置
JR中央本線で大月までいく
②大月から家まで徒歩
③火曜水曜でESやらの記入をすませる
④木曜日にありとあらゆる荷物を持って大月までいく
⑤弟宅再上陸」(9時26分)


実際には、これより大変な思いをするのだが、後の話。
この頃天気予報で2/18(火)19(水)にも大雪が降るという予報が流れ始め、この計画を実行する決意を固める。
加えて、大月駅で孤立していた友人の都留まで徒歩行脚の報も合わさり、都留市内残留組に「大雪で都内に進出できなくなる前に、都留を脱出する」機運が高まる。10時31分のリプライで、この計画への参加を表明。同33分、快諾を受け都留決死隊の結成。
同日15時過ぎ。大月駅を出た友人が無事都留到着。そして、奨学金継続手続き問題を、大家さんと友人の協力を得て、なんとか解決する。
結局この日も弟宅に泊まる。鉄腕DASH軍師官兵衛を見て英気を養う。ちなみにこの日は烈車戦隊トッキュウジャーの初回放送日でもあった。その日に鉄道が不通になりまくるとは何の因果か。
この日夜の現状分析
「最善:明日の朝から中央線復旧。大月都留を突貫往復。東京へ脱出がその日のうちに完了。
最悪:中央線の復旧が間に合わぬまま次の雪到来。チケット回収できずかのコン、SSAに行けない。」(20時58分)
最悪が来ないことを祈りつつ眠る、弟の部屋での3泊目。

 

  • 2014年2月17日(月)

朝4時16分起床。4時48分には新宿駅に着いて始発を待つ。5時58分には高尾着。四方津行きという滅多に見られない列車に乗り込む。どんどん雪深くなる中央本線に不安をいだきつつ、6時28分、四方津着。「そして四方津から向こう側。本当にお疲れ様です。四方津まで通してくれてありがとうございました。」(6時28分)

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延々、歩いていくもんの気持ちで西に進むも雪深く凍結も進み、記憶にある限りでコケること3度。手のひらを擦りむくし、非常に情けない気持ちで帰る。

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(同じようなことを考える人は俺だけではなかったのか、足跡は一人分ではない)

四方津駅から大月駅までがおよそ14㌔。大月から都留の部屋までがおよそ10㌔なので、えっ、これ往復50㌔あるのか…。俺いままで往復40㌔だと思ってたよ。
まぁ、ともかく、8時44分。大月駅到着。
これにはからくりがあって、四方津から大月までの道のりの道中。梁川を過ぎたあたりで親切な方に拾っていただき、車に乗せてもらったのだった。ちなみにこの方、俺と同じようなことをしていた道中の人を片っ端から拾っていて、大月につく頃には、3列シートには6人ほどが乗っていた。
大月駅に到着すると、大人組は名刺を渡したりしていたものの、運転手の方はついぞ最後まで名乗らなかった。名乗るほどのことでは…というのを、こういう災害時にサラッとできる大人の方はすごいと思う。渡す名刺を持っていなかったので、大学と学部学科名と名前を名乗り、お礼を言って都留までの残り10㌔を歩く。
富士急は未だに運休中。しかし、大月駅で聞いたところによれば、大月と富士吉田から除雪車が動き始める。そして、三つ峠と下吉田からも人員と機材を搬入し、目下復旧を目指している最中とのこと。頭の下がる思い。
加えて、上大月を少し超えた当たりで、さきほど大月駅まで一緒の車に乗せてもらってた人が、大月駅で自分の車を拾って乗せてもらう。大月-都留は結局ほどなくして通行禁止区間ができてしまうので、そこまでとなったが、わざわざ声をかけて拾ってもらい、感謝の念に耐えない。
道中、壬生のローソンなどで、エネルギーを補給しながら、延々歩く歩く。ちなみにこのとき、聞いていたのは中川かのん2ndアルバム「Colors」の特典ラジオCD。予習も欠かさない。時間がなかったのだ。
そして、11時8分。都留着。4時半に新宿を出て6時間半ほどの強行軍だったが、道中の皆さんのお陰で、異常な程に早く戻ってこられた。

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(自宅前の救出とはこのこと。軒下でも雪に圧殺され、愛車が死んでしまうところだった)

道中のイベントを語るところによると
「車乗ってる人6人いたんだけど。ドライバー「あ、あれ中央線の線路ですよ」Aさん「え、どこです」Bさん「え、もう全部埋まってますね…」全員「あっ…(察し)」ってなってた」(12時55分)
「大月で富士急のホームから先50mくらいのとこに除雪車が見えたんで。俺「あ、あれ除雪車ですか。結構進んでるんですね。」駅員さん「あれ1時間まえにスタートしたんですよ」俺「あっ…(察し)」」(12時57分)
ダメだこれは…。もう、明日都留を脱出するしか無い。追い詰められた大学生がそう決心を固めるのに、そう時間はかからなかった。
帰って程なく爆睡。20時過ぎに目が覚めると、ちかくのスーパーおかじまでカップ麺を買ってきてエネルギー補給。
ゆっくりしていた22時過ぎ、別の方向から悲報が。東京の次男がウイルス性胃腸炎を発症。東京での宿がなくなる。これに際して、焦りを隠せなかった俺は、すぐさま横浜で3泊のホテルを確保。
この時点で、2/22の舞浜でのライブ、23のSSAでのライブのホテルは予約していたので、横浜で3泊、千葉で1泊、さいたまで1泊の5連泊が確定する(実際には6連泊になるのだが)
そして、夜中の1時くらいまで翌日の荷造りに励む。この日の転倒で右手首を痛めていたので、両手を明けるべく苦心する。リュックサック、エナメルバックをフル活用して荷造り。何故か、日本酒を持っていこうとし、しかも持っていく。(桜酵母花音という酒を、舞浜ライブのためにわざわざ取り寄せていたのだった)
2時8分。就寝。「ほな、おや炭谷銀仁朗

 

  • 2014年2月18日(火)

7時26分起床。前日の夜中に、大月駅で取り残されていた人たちを乗せた上り電車が発車したものの、その後の運行の見通しはやはり立っておらず、四方津遠征を決意。
9時38分頃、出発。その後はツイート数が少なくなっており、情報が断片的であるものの、6人で隊列を組んで四方津に向かう。12時58分大月着。大月駅前のうどん店でエネルギー補給。
大月駅から試運転の電車が出るというニュースを受けるものの、構わず、四方津に迎ってあるきだす我々。
大月を出て程なくのコンビニでアイマスウエハースを購入。どんなときでもアイマスは俺に力をくれる。
15時20分、猿橋に到着。16時12分、鳥沢に到着。

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車一台分しか道のあいてない国道を延々歩く。大月市を出たのが、18時10分頃。

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この頃から、寒さと披露と関節の痛み(俺)で隊列が乱れてくる。もう言葉も少なに、ゴール直前、途中異様なハイテンションに包まれる瞬間がぽつりぽつりと出てきながら、18時24分、四方津駅到着。
ほぼ時を同じくして、中央本線の高尾-大月間が開通。大月で待っていれば…というのは結果論。
21時25分までツイートもなく、疲労に身を任せる中央線、横浜線みなとみらい線道中。
この日の総歩行距離は24㌔。両足をひたすら褒める。
眠りにつくツイートもないまま泥のように眠る。


これが4年前の大雪の俺にとっての全貌でした。
当時のツイート見てるといろいろ思い出すね。
うーむ…やっぱり今のアカウントもツイログ見られるようにするべきか?どうすっかなぁ…。

しっかし、つくづくも、1人の力であのライブに行けたわけじゃないんだな…という。
今週もそういう気持ちを忘れずに、JALとかJR東日本とかいろんなところに感謝しながら、向かおう東京。待ってろ所沢。歌おう武道館。レッツゴー。