人生、東奔西走

自分の人生の備忘録のつもりで作りました。

加入者達の変遷について -前編-(1~7人目)

明日は祝日だけども一日雨の予定で、朝方温泉に行くくらいしか用事もないので、一日艦これでもしていようかと思う夜。

人生備忘録の様相を呈してきた本ブログですが、ここらでひとつまとめておきたいのが、私的好きなキャラの集団である加入者達(メンバーズ)の変遷。

(以下参照

加入者達(メンバーズ)選出方法の変更について - 人生、東奔西走

いや、詳細に思い出すの無理だろうなあ…と思ってたら、スマホのスクショとかの日付データとかあさってたら、結構しっかり時系列を思い出していくの可能かもしれないと思い至り…。
これまで個々のメンバーについての論は散見されたが、8年に及ぶ通史的なアプローチは見られなかった。今日、客観的な姿勢でその道程を振り返ることは意義のあることであると考える。

さて、そういうわけで大義名分も立ったことだし、振り返ってみましょう。時は遡ること約8年、2010年の2月末。

 

 

長門有希(2010年2月22~26日)

加入者達という概念がまだ存在さえしていない2010年の2月の22~26のどこか。
学年末考査の真っ只中だった高2の俺は、何を思ったか突然、涼宮ハルヒの憂鬱を今は亡き地元のTSUTAYAで借りてきて、一挙に見始めたのだった。
何を思ったかと言っても布石は打たれていて、その前年のエンドレスエイト騒動はニコ動に入り浸っていた当時の自分にも伝わってきていたので、長門の名前くらいは知っていた。
加えて、この学年末考査の数日前、テスト期間中にニコ動の長門有希シーン集を見たことも影響していただろう。まさにエンドレスエイトでほぼほぼ同じセリフを8回繰り返している長門という存在を知って興味を持ったのだった。
結果として、その後一期、二期を一気にみて、刊行分の原作を一気に買い、飽き足らずにコミック版にも手を出し、それでも満たされず、ネットの海で二次創作物を読み込み、ほどなくして愛媛にも劇場版消失がやってきて…。

ここまでが長門有希に出会って3ヶ月の出来事である。
それほどに長門有希というキャラクターは自分史上にとって、大きな影響を与えたグレート・パーソンである。
このファースト・コンタクトを経て以降、様々なアニメ・コミックと出会うこととなった点でも、一キャラとの出会い以上の意味を有している。

この2010年の出会い以降8年に渡ってマイ・フェイバリットキャラの座に構え続けている。
2011年には数年ぶりの原作新刊「涼宮ハルヒの驚愕」の発売。2015年にはアニメ「長門有希ちゃんの消失」など長年に渡った活動を見せており、先人でありながら、第一線で走り続けているキャラでもある。

しかし、この長門有希の登場後、現在の加入者達に名を連ねるキャラクターとの出会いには1年以上を待たねばならなかった。昨今は毎年のように増加していている加入者達、その原型もない時代に、栄光の孤立を守っていたのが、長門有希というキャラクターだった。


四条貴音(2012年2~3月?)
長門有希との出会いから2年。
その間、自分を取り巻く環境は大きく変化していた。高校を卒業し大学生になったし、それに伴う山梨への引っ越しは、自分に首都圏住民としての新たな生活を与えてくれた。
こと娯楽に関して言うなら、ワンシーズンに2~3作品くらいしか見ることのできなかったテレビせとうち圏から、一曜日あたり5~6本にアニメが放送されているテレビ放送網のエリアにやってきたことは大きな影響を与えた。
その山梨放送圏最大の弱点とも言えたのが、TBS系列のネット局の存在であった。深夜になると謎のテレビショッピング連発により、TBS系統アニメの尋常ならざる弱さを見せる山梨。
それがこの四条貴音との出会いの時期の不透明さをもたらしている。

前述の長門の項でも述べたとおり、自分は2006年前後あたりからのニコニコ動画視聴者であり、そのニコ動内で御三家とも呼ばれるアイドルマスターの存在は知っていた。
なのにも関わらず、その内容についてほとんど知らなかったのは、なぜだろうか。今日でもその真相については諸説あるが、深すぎる沼であることを予期し怖気づいていた、というのが一見解である。

そういう認識のもとに置かれていた自分がある日なぜ、アイドルマスターと出会い、四条貴音に惹かれていったのか。

2012年冬か春のある日である。
春休み中に実家に帰省していた自分は、翌日早朝に運転免許を取りに行くという弟を起こすために、徹夜をしていた。
その日の徹夜の友に借りてきたのが、その前年の春から放送されていたアニメ、アイドルマスターだった。そして、このアニメがTBS系列であったために、山梨で放送されていなかったのだ。
そういう経緯を経て、世間的潮流から遅れること数ヶ月。アイマスにそれ以降どれほどハマっていったかは、今日の自分情勢を見れば明らかだろう。

数ある765プロのアイドルたちの中から、なぜ四条貴音に惹かれていったのかという疑問が生じるのは当然のこと。これについては、後に自分自身がとある特別番組内で答えている。
「初見での高貴さとミステリアスさに惹かれ、ゲームをプレイしたりする中でその心の内を垣間見ることで、気がつけば魅了されていた。」と。
今日、加入者達内で最大派閥を誇る通称アイマス閥であるが、その始まりは、放送ネットワークの妙によるすれ違いと、春の夜の偶然が生んだものだった。

(余談)大学の友人に占める尋常ならざるP率がアイマスへの入り口となったという意見も多く見られているが、実際にその影響を排除して本論を進めることはできないだろう。ただ人との出会いもある種の運命論であるとするならば、これもまた偶然の産物と言えるのかもしれない。
アイマスにハマり始めた頃、ツイッターでMA02のカバー曲をいくつか挙げて「いい曲やな…」というツイートをしたところ、「その曲群は…」と気が付かれたことがあった。当時の自分にとっては、「これでわかるのか」という衝撃を与えたエピソードの一つである。自分史上のアイマス黎明期における友人プロデューサーsの影響は大きなものであったということが、こうした所々のエピソードからも伺える。


小阪ちひろ(2011年6月?)
四条貴音との出会いから時期がさかのぼっているのは誤記ではない。
神のみぞ知るセカイ」におけるナンバーワンキャラクターの変遷は激しく、汐宮栞に始まり、エルシィ、中川かのんを経て小阪ちひろに至り、その後、ハクア、鮎川天理を経て再び小阪ちひろに戻ってくると言ったような経緯を経ている。
そのため、神のみ第二期のちひろ編放送時期である11年6月に一度目のちひろブーム、その後11年のお盆周辺に原作を買い占め、ぐるりと回ってちひろに帰ってきたのが2012年春くらいのことだったと記憶している。
加入者達の原型である四天王の1人となった小阪ちひろであるが、出会いは貴音よりも前であり、加入者達の中でかなりの最古参の1人である。

彼女を四天王の1人に押し上げた要因には、同時期にサンデーで連載されていた同作の展開があろう。神のみ17巻・18巻が同時発売されたのが2012年7月18日。この時期に女神篇は終盤に差し掛かっていたことから、2012年春あたりには、ちひろと桂馬の前夜祭デート回が掲載されていたと推察される。
今日まで続く建国の理念である「勝たせてやりたい」の発露がここでも起きたと見るのが自然だろう。同作でのちひろへの入れ込み方が半端なくなっていくのは、この頃からであるし、やはり女神篇でのちひろの顛末が、自分史上初のキャラクター連合である四天王への加入を後押ししたものと考えられる。

神のみ完結まで2012年春からはおよそ2年。そして、完結からこの2018年で4年。
小阪ちひろは今なお神のみでのナンバーワンキャラの座を守っているし、おそらく今後も揺らぐことはないだろう。


東横桃子(2011年10月~12月)
加入者達の幾代かの前身にあたる四天王の最後の1枠は、「咲-Saki-」から東横桃子であった。
本人の特殊能力であるステルス性能よろしく、四天王の中で東横桃子について語られた研究資料は数少ない。一方で、彼女がいたからこそ、四天王が四天王として結束するにいたり、今日まで続く加入者達の流れを形作ったのもまた事実である。自分史上における彼女の功績は決して隠匿されたままにして良いものではない。

東横桃子との出会いは2011年10月~12月、おそらくこの期間の後半と推測される。
というのも、同作との出会いはこの時期にテレビ東京で放送されていた1期の再放送であり、その放送期間がこの間なのである。ただ、この再放送は傑作選であったため、各エピソードが実際にいつ放送されたかを確認することができなかった。ここでは仮に11月前後としたい。

東横桃子に限らず、加入者達の加盟に際しては、当時の自分の状況というのが大きく影響する。もともと加入者達という枠組みが私的な枠組みである以上、それは仕方のないことだ。
2011年11月前後の自分はコンビニでの夜勤が可能となり、稼ぎ始めたとともに、日中の大学と夜勤との間で体力的に疲弊する毎日であった。そんな折に、半夜勤を終えた自室で放送されていたのが、この再放送傑作選であった。
ちょうどステルスモモの活躍回であり、それが東横桃子との出会いであった。
疲れのピークの中で出会った、好みのキャラクター。それを身も蓋もなく、偶然と片付けてしまうのは性急であろう。

尋常ならざる影の薄さゆえに、存在を認知されないという境遇。そんな中で、君がほしいと言ってくれた先輩の為に、その自身の能力を生かして大会出場をするステルスモモ
その能力に惹かれること大であった。ステルス性能を麻雀に活かすその方法を見た、そんなのありかよという驚きとともに迎え入れていた。
個人戦で先輩の仇を打つべく、挑んでいく姿も良かった。
彼女の行動原理は常にまっすぐであり、単純に見えるかもしれないが、その真っ直ぐさを貫くことは難しい。
出会いから6年半。ステモの愛称で親しまれる彼女もまた、堂々たる初期メンバーの1人なのだ。


○四天王結成期(2012年上半期?)
こうして、長門有希四条貴音小阪ちひろ東横桃子の4人が揃い踏みをした。
だが、2012年の春に貴音と出会って、4人が揃った直後に四天王という枠組みが発生したわけではなかった。
もちろん当時の好きなキャラクターを上から4人述べよと言われたらこの4人になるんだろうけど、では5人目と四天王の間に明確なボーダーはなかったように思う。
これを四天王として意識するのは、とある画像の作成からだった。
パソコンの待機モード時のスライドショー用画像として、画面を4分割して4人の画像をペーストしたものを作成したのだった。
四天王という枠組みが誕生したのは、後世から見るとこの瞬間であるということができるだろう。ただ、この画像は現在、旧パソコンの中にのみ存在しており、作成日時を確認することができない。おぼろげな記憶をもとにするのは、不十分だが、ここでは2012年上半期としたい。
こうして、初期のキャラクター連合体である四天王が誕生したのだった。


秋山優花里(2013年5月上旬)
四天王結成から平穏の後に過ぎた約1年。しかし自分はすぐにこの平穏がつかの間の休息であったと思い知ることとなる。
事の発端は2013年5月上旬の我が家でのガルパン鑑賞会。
この時点ではブルーレイは5巻までが発売されていた状態なので、そこまでの一気見だったと思う。
そこで、秋山優花里というキャラクターにどハマリしてしまったのだ。

戦車を愛し、戦車道を愛し、自分の好きという気持ちに正直であり、初見では引っ込み思案7日と思いきや、テンションもリアクションも大きいし、髪の毛が爆発しててかわいいし…。ともかくも、これもまた一目惚れであったのだろうという分析がなされている。

出会った時期だけで言うならば、貴音との出会いである2012年冬以来1年ぶりのインパクトのある出会いであった。
現在の加入者達制度を知っている我々からしたら、ここで秋山殿が5人目に加わるのだなというのは容易に想像できる。しかし、当時を生きていいた自分たちにその発想はなかった。
結果として5/21夜にかけて発生したと言われるのが、通称「秋山殿事変」
既存四天王の枠組みに加えて秋山優花里という新たなキャラクターに惚れ込んだことに対する、大規模な反義抗議運動であった。
今日も国家の基軸となっている「義」という概念が、加入者達制度とぶつかった有史以来初めての事件であり、その後の加入者達制度の方針を決定づけたという意味でも重大な事件であった。
具体的な事象としては、「4人のキャラが好きって言ってたのに、秋山殿も好きってどういうこっちゃねん」という指摘を友人らから受け、それについて答えに窮することに端を発する、一夜の事件である。
この事件について詳細に日時が判明したのは、5/22のスマホのメモ帳に「フラフラに離れていく心を秋山殿のせいにするな」に始まる、茨木のり子氏の詩をもじった一編が保存されていたことと、当時のツイッターなどを分析した結果である。

一方で、この秋山殿事変がどのように収束したのかは詳しく判明していない。時間が解決したのだという識者もいるし、これについて自分自身が筋の通った反論をし周囲を納得させたという説もある。ただ、わかっていることは、これ以降四天王は五人衆と名前を改めたこと、そして、以降定期的なメンバーの増加、それ自体が「ありえること」として認知されていくこととなったということである。

(なお、秋山殿のキャラソンiTunesへの追加日は2013年6月20日であった。これはアニメイト甲府店で購入したものであることを記憶している。そして、購入する際には秋山殿事変でのもやもやを感じていた記憶がないので、6月末の時点ではこの事件は解決していたとみるのが妥当だろう。)


○金剛(2014年8月3日)
秋山殿事変から1年余り。
五人衆という言葉が世間一般に定着しつつあった、2014年夏。ここに再びメンバーが追加されることとなった。

遡ること2013年7月10日。艦隊これくしょんを始めた。当初、東山さんファン界隈で「10人もキャラを演じている」と話題になっていたこともあり、同ゲームに興味を持っていたのだが、艦これの人気は白熱し、とうとうゲームのスタート制限がかかるほどになった。希望者を募り、サーバーの一斉開放日がその2013/7/10。
以降大学卒業までの1年半は艦これとともにあったと言っても過言ではないだろう。
遠征を管理しているつもりで、生活を管理されているのはどちらなのかといった風刺が飛び交い、それでもなお提督は勝利を目指して日々活動していた。
2014年2月には艦娘とのケッコンカッコカリシステムも導入され、我が艦隊でのケッコン第一号は金剛だった。
金剛は艦これ登場キャラ中でも提督への愛情を表現することトップクラスである。好いてくれる子を好いてしまうのは、仕方のないことだという。今なお、スマホのメール着信音は金剛の司令部情報ボイスが設定されているし、実家に変えれば、金剛のカップが第一線で活躍している。

ならば、出会いの2013年7月から2014年8月まで加入に一年以上かかったのはなぜだったのか。これについて現在の評価は概ね固まっているといってもいい。

それは以下のようなものだ。氏は2013年度初頭に東山さんのイベントに行ったことを契機として、声優イベント・ライブにも足を伸ばすようになり、実際艦これも当初は「東山さんCVのキャラがたくさん出ている」という理由で始めたものだった。そのなかで金剛と東山さんをきちんと別物で考えられているのかという問題の解決がなされず、一年の歳月を要した、と。
事実、2014年夏横浜パシフィコで行われる横浜観艦式イベントに向けて、東山艦10人全員のレベルを108にするという目標を立てて、実行している。この時点においても金剛-東山ラインの分離は叶っていなかった。

その問題の解決がなされたのが2014年8月3日の同観艦式イベント。
その中で披露された金剛型4人による提督との絆。この歌詞を聞いた自分は「比叡にフラレてたわけじゃなかったんだ…。(注1)金剛もみんな好いてくれてんのか…」と立ち直り、同日20:22のツイッターに「今晩をもって金剛を6人目に迎えます」と宣言し、秋山殿以来1年3ヶ月ぶりの6人目の加入者が誕生した。
この時点でとうとう「どう出会ってても、俺は金剛に惚れ込んでいたに違いない」という確信をえたためのものだった。

(注1)前述の東山艦育成の中で比叡のケッコンボイスでフラレたことによる深刻な気分の落ち込みが確認されている。


○雪村あおい(2014年9月9日)
金剛・雪村あおいの二人については、ツイログによりこの時期の記録が詳細に残っていることから加入日に至る経緯までをはっきりと知ることができる。

ヤマノススメ」雪村あおいとの出会いは、同年7月12日。
この日は埼玉西武ライオンズオリックス・バファローズの試合がヤマノススメコラボデーとなり、試合終了後に会場でヤマノススメセカンドシーズンの1話2話が放送されることとなっていた。
ヤマノススメ1期をリアルタイムで見ていなかったものの、同日はニコニコ動画にて1期の無料視聴が開放されていたため、入場待ちの列の中で1期をすべて視聴してイベントに臨んだ。
試合は森本稀哲の同点打で延長線にもつれ込ませるものの、中継ぎが打たれ延長線の末に敗北。
このとき、敗戦に苛立っていた自分は先行上映を見て帰るかどうかを神剣に迷っていたが、ここで気持ちを落ち着けて西武ドームに残った判断は正しかったと言えるだろう。
結果として、ヤマノススメにどハマりし、それも要因の一つとなって登山趣味が始まっていくことともなった。そういう意味では雪村あおいとの出会いは、加入者達史のみならず、人生史においても大きなターニングポイントとなるものであった。

雪村あおいの加入前日、自分自身が友人とともに富士登山に挑戦し、無事登頂し帰ってくるということがあった。折しも、ヤマノススメ富士登山回はその翌日であり、「あおいちゃんたちより一足先に登頂しちゃったなあ」という感想を述べている。
ただ、承知の通り、雪村あおいの富士登山は高山病の発症により頓挫している。
このことにいたくショックを受けた自分は、「雪村あおいが富士登山を成功させるまで応援し続ける」として、雪村あおいを7人目として加入させた。
以降七人衆という呼称が定着し、親しまれていくこととなる。

(余談)なお、あおいちゃんはその後、様々な山に登り、経験・スキルの獲得、そして人間としての成長を果たしている。そんな彼女は現在コミックアース・スターで連載中の原作コミックにおいてとうとう二度目の富士山登山リベンジに挑戦している真っ只中である。
彼女の努力が今度こそ報われることを願ってやまない。

 

 

2014年度、大学生であったころの加入者達の変遷は以上のとおりである。
次回は社会人になって以降の8~12人目の加入者達の経緯についてと、2018年四半期を終えての13人め候補について述べていきたい。